2012年7月9日月曜日

今、もう一度Vガンダムを見る


もう一度見たいと思うガンダムは?という問いにファースト、V、∀と答えたい。
その中のVガンダムを10年ぶりくらいかな、最初は本放送を何もわからないキッズの気持ちで、次にCS放送で悲惨な話だなーという気持ちで。そして今回3回目を見まして、やっと面白さの入り口に立った気がします。
「昔見た事がある」という人に今一度見る価値があるアニメだから、一緒にもう一回見ようぜ!という趣旨です。
あらすじ ウィキペディアより:機動戦士Vガンダム
宇宙世紀0153年、地球圏を統治している地球連邦政府は形骸化し、宇宙に存在する各サイドは連邦政府の統制を離れた独自の道を歩み始め、各地で紛争が勃発する「宇宙戦国時代」に突入していた。
そのなかでもサイド2に存在するザンスカール帝国はギロチンによる恐怖政治と、救済と慰謝を基調とするマリア主義を掲げて急激に民衆の支持を獲得し、地球に向けてベスパと呼ばれる帝国軍を派遣した。ベスパはヨーロッパの都市 ラゲーンを制圧下に置いた後、地球侵攻のための拠点とする。また、ザンスカール帝国への抵抗活動を続けている組織 リガ・ミリティアの構成員たちも、それに対抗してヨーロッパで散発的な抵抗を始める。
こうした中、ヨーロッパの都市 ウーイッグ近くに存在するカサレリア近辺にてパラグライダーを操っていた主人公の少年 ウッソ・エヴィンベスパのMS(モビルスーツ) シャッコーとリガ・ミリティアに所属する小型戦闘機との戦闘に巻き込まれ、シャッコーに引っかかり取り付いた挙句、パイロットを引き摺り落としてMSを奪ってしまう。
これを発端に、その後ウッソはリガ・ミリティアと共に、数奇な運命をたどることになる。
宇宙世紀0153年とか作品の中では特に説明がなかったように思いますが、それ以外にも周辺の設定情報が後から入ることで作品の深みが増していく作り、悪く言えば説明不足(作品内の情報だけで十分話は見えますが)、よく言えば行間を読み取る事が出来るおもしろい作品でした。
以下ネタバレ全力で、心にズギャーンと来たエピソードを未視聴者置いてけぼりで書き散らします。


・6話 戦士のかがやき
所謂ランバ・ラル回、「戦場で敗れるということはこういう事だ」を思い知らされる訳ですが、撃墜されたMSを降りたワタリー・ギラ大尉は向かい合った敵パイロットが子供であった現実に涙する。「まだ遊びたいさかりの子供が、こんな所で、こんな事をしちゃ・・・いかん。子供が戦争をするものじゃない。こんな事をしていると皆おかしくなってしまう・・・そうなる前にMSをを降りた方が良い」
「やりたくてやってるんじゃないですよ!」
「現実がこんなに残酷とは・・・私から離れろ、早くいけ!」手榴弾にて自害。
理想でしかないと言いながらも騎士道を求めた軍人が、少年兵と戦わなければならない戦場の現実に絶望する。戦士として生きる厳しさを教えたランバ・ラルに対して、心ある人間らしい敵として現れたワタリー・ギラ。その出会いが戦い続ける事に迷いを生じさせるが、どうしようもなく巻き込まれた戦いと、両親に叩きこまれた知識と天性の才能がそれを許さない。
それでもなるべく被害が少ないように敵を撃破していく姿勢が物語終盤まで続いていくのは、そういった迷いや戦場においても毒されないウッソの心の強さが見えて好感が持てた。終盤は核爆発も躊躇わずにごりごりと殺戮しますが。

・36話 母よ大地にかえれ
どう考えても学校帰りの少年少女たちに見せるような内容じゃあない、狂った脚本を書きやがるぶっ飛んだ富野御大には頭が下がります。目の前で母親の生首をぶっ飛ばし、その母親の首を目の前にして13歳の少年パイロットを絶望させるという正気の沙汰とは思えない内容。
そしてその重要なお話なのに作画が70年代並の酷さ、連続で見ると35話の村瀬秀行氏&GAINAX回が良すぎて比較出来てしまう為に尚更酷い。アニメアール何やってんの。


・46話 幻覚に踊るウッソ
エンジェルハイロゥによる精神攻撃を受けながら、辛くも勝利したウッソ。それを出迎えるマーベットに抱かれ両手を握り祈りを捧げるような構図。これはマリア・ピァ・アーモニアの白いマリアに対する黒いマリア像という事でいいんでしょうか。そんな読み方をする人が今後現れる事を祈ってネット上のテキストの海に流しときますねー

・48話 消える命、咲く命
カガチは「穏やかな人類を地球に再生したい。戦争しか知らぬ奴らは全て消滅しろ」と、人類の歴史をやり直そうという。
時系列としてはエヴァンゲリオンがVガンダムっぽいと言うべきなのですが、逆に感じられてしまうのが視聴順序の問題か・・・と考えてしまう。クライマックスに近づく程に盛り上がる。絵が良くなる。時代を感じさせなくなる。むしろいま見ても新鮮な物語。意味不明で理解するのに解説が必要なほどに難解なエヴァとは違い、最低限の材料は与えている部分においてはストーリーテリングのパワーがあると思います。しかしながらその意味不明な物語だけぶん投げるという姿勢こそがエヴァの真骨頂であったのか・・・とも思い返す。
エヴァ後の時代においても、全然問題なく見ることが出来てしまう恐ろしい先進性をもった事を感じさせる。早すぎたのかそれ程に病んだ未来に追いついてきているのか。そんな事を感じさせ、そしてウッソとマーベットの会話を借りた、富野御大の説教が胸に沁みます。
「男って殺しあうだけの道具なんですかね?」「僕は嫌なんです、人殺しをしているところで成長するのは」「マニアは危険だから」
シュラク隊も
「戦争やるのが全てじゃないんだよ、楽しいことを思い出さなくっちゃ、なんのために戦うか忘れちゃうわよ。」 
「軍に入ってからそんなもの無かったよ」
「生きていればいくらでも作れるわ。でも、ああやって必死に作らないと作れないものかもね。」
次の命を産んでくれる、女性たちの為に。か・・・。
男は女の時代を支えろってことでしょうか?

・49話 天使の輪の上で
エンジェルハイロゥでのフォンセ・カガチとウッソとのやり取り。THEお説教の開始。
老人と少年は未来の人間社会に対する希望と絶望を圧縮した会話でやり取りするが、根本は保守か革新か?の問いに答えは出ないという結論か。しかし老人の経験から語る、人間社会への絶望を一挙に解決する手段に人生を捧げ、そしてその成就の瞬間を、カガチのように人間社会を憂い、このままでは駄目だと思い始めているウッソに破壊される。ウッソは言う「何か別の方法がある」と。人道的な解決方法が時には存在しない問題があるのかもしれない。そんな問題と、時間が限られている状態になっても、尚、尚、綺麗な解決方法があるはずで、全員を救う方法がある”かもしれない”とする希望を抱く天才。それは常に繰り返されてきた問題、それに嫌気がさし、「ザンスカール帝国の目指す未来を見てみたい」とウッソと峠本を頒ったカテジナの気持ちも分からないわけではなく思う。
しかし「信念を持った子供なんて気持ちが悪いんだよ」と一喝するカテジナは、ウッソの恋心を利用したゲスい作戦もついには破られ、自分が散々殺そうとしてきた人に殺されそうになって”意外だった”みたいな表情を見せ、少し悲しい素振りを見せる。「とうに狂っている」と言った本人も、実はまともだった時に繋がりのあったウッソとの細い糸を心の拠り所にしていたのかもしれない、そうして最後の砦であるクロノクルに全てを繋げたのかな・・・と思います。
そしてやはりシャクティ。名前といい、キールームで纏うその衣服は(元はインドだと思いますが)新興宗教を思い起こさせます。メディアに大きく取り扱われる時期に差し掛かった頃かなと思いますが、オウム真理教のようなものを想起せざるを得ないあの衣装。母のマリア・ピァ・アーモニアとは全く違った姿は、やはり何かしら含みがあるのではと考えてしまいます。

・50話 憎しみが呼ぶ対決
「そろそろ覚悟をする時かな」ジン・ジャハナム(真)閣下は言う。
名曲、いくつもの愛をかさねてをBGMにリーンホースJr.特攻。戦い続けてきたライバル、クロノクル達のアドラステアをビームラム(!?)にて貫き、お互いの母艦が消えてしまう。若い兵士は退艦させ、老人たちだけで敵陣に突っ込むその姿には、悲しみとは別に何故か希望を感じてしまう。これは命を犠牲にして次の世代に未来を託そうというその姿が”救い”に見えるからでしょうか。本当に主要キャラクターからサブキャラクター、敵も味方も恐ろしいペースで死んでいく物語の中で、未来への希望ある死と映る彼・彼女らの行動は、ひたすら涙が流れ、「ありがとうありがとう・・・」と嗚咽しながら見ました。
しかしそんな感動の余韻に浸る間もなく物語は進み、カテジナがカテ公などと言われる主因になるシーンへ。

・最終話 天使たちの昇天
何が失敗作だよ。名作だ。
この最終話を見るためにまた51話の物語を繰り返し見ることだろう。
最後の最後でオデロがカテジナにやられてしまう。「先輩の言うことは聞いてシャクティを助けに行け」と言ってカテジナに挑むその姿、年長者はかくあれとの事か。
最後までクロノクルにすがった、そして引き上げようとしたカテジナは、ウッソに対して最後の最後まで好意を利用して殺そうとする。
それに対して今まで散っていった仲間たちの魂とガンダムの力で、エンジェルハイロゥ共々カテジナを昇天させる。ウッソの「ガンダム!」の四文字の叫びに魂が乗る。ウッソと共に演者の阪口大助さんも成長していた。
カミーユ譲りの魂アタックを用いてもウッソに反動がなかったのは、相手のカテジナにまだ優しさが残っていたからでしょうか。
エンジェルハイロゥ基部にて待ち伏せるカテジナとのラストバトルは屈指の名シーン。ライバルであるはずのクロノクルとの戦いはそこそこに、カテジナが最後に立ち塞がるのはストーリー序盤の頃を考えると全くの予想外。ウッソの言葉を借りるならば「クロノクル、あなたの弱さが視聴者を迷わせた」

戦いは終わり、カサレリアに戻ったマーベット達。
冬の川で洗濯をするシャクティと、側で遊んでいるカルルのもとに、盲目になったカテジナが故郷に戻る途中通りかかる。ワッパのナビが壊れたので道を教えて欲しいと。シャクティは道を教えずにディスクを交換してあげる。
カテジナ「冬が来ると、訳もなく悲しくなりません?」・・・
過ぎ去っていくカテジナの後ろ姿を見たウォレン「誰だったの?」
シャクティ「道に迷った旅人よ」
涙を流すシャクティ。
涙で画面が歪む。嗚咽。

あの時カミオンを降りず、ウッソたちと行動を共にしていたら?一本の道を迷った為に、悲しすぎる結末に。「ザンスカールの作る未来」は見えなかったが、冬の冷たい川で凍えながら洗濯をして自然の中で暮らす人々の未来は守られた。役目を終えたV2ガンダムが森の中で佇む。
環境問題や争い続ける人類の問題は解決されなかった世界の、この平和(?)はいつまで続くのだろうか?「もっと良い方法」を求めて戦い、戦争に疲れきった人々は答えを探す辛い旅を続けられるのだろうか?それともまた同じ争いを続けるのか―
シャクティと数万のサイキッカー達の祈りによって、カガチの描いた未来を作るために利用されたエンジェルハイロゥは想像を超えた力を発揮した。人類を退化させるはずであった装置が、使う人間が変わる事で、カルルが立ち上がり、初めての言葉を戦場で話すという。もしかしたら進化をさせたのかもしれない?という可能性も見えたが、真実を知っていそうなマリアの幻影は微笑んで消えてしまった。

20年経った作品でありながらまだまだ考えさせる恐ろしいアニメ。他人の論考は見ず自分の考えだけで書こうと思いましたが、どうしても確認したかった「Vガンダム、エヴァンゲリオンプロトタイプ説」を検索したところ、やはり共有された事実なんだなぁと確信しました。そしてVガンダム研究会というガチな人々がいるという事も知ってしまってさらなる興味を持ちました。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が元になっているとは何も考えていないキッズにはわからなかったなぁ。
レジスタンスでありながら驚異的な兵站・開発能力、パーツ特攻攻撃を始めとするぶっ飛んだ作戦の有用性、老人と若者の物語、女の時代は来たのか、ファラ・グリフォン悲劇、中盤からのハロの役割、宮崎アニメに対する含みだとか、オデロやクロノクルの最後は人類補完計画的な幻想を見たのか、などまだまだ楽しめそうで、また何年か後に見ることになると思いますが今回はこれにて。


バンダイチャンネルで視聴がお得っぽい。
http://www.b-ch.com/ttl/index.php?ttl_c=249

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